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『歎異抄』を読む(その97) ブログトップ

8月21日(火) [『歎異抄』を読む(その97)]

 いつ頃からでしょうか、よく聞くようになったことばに「自己責任」というのがあります。ぼくはこのことばに現代という時代を象徴するものがあるような気がします。「勝ち組、負け組」も嫌なことばですが、勝ち組になるのも負け組になるのも「自己責任」だと言われると、ますます嫌な感じになります。
 振り込め詐欺にあって、なけなしの蓄えをスッテンテンにされたお婆さんに、それはあんたの不注意だから自己責任だと言われる。就職氷河期にあたって、ワーキングプアになってしまった若者にも、それはあんたの努力が足りないからで、あんたの自己責任と言われる。何だか血も涙もない社会になってしまったように感じませんか。これは、諭吉先生が「貧しくなるのも豊かになるのも、一人ひとりの努力次第です」と説いた延長線上にあるのです。
 ぼくは長い間教壇に立ってきまして、いわゆる「できん坊」の相手をしてきました。「おい、この字は何と読む」と訊きますと、「知らん」と言います。「もうちょっと愛想のいい返事はできないのか。じゃあこれは?」と突っ込みますと、「そんなの知ってたら、こんな学校には来とらん」と反撃してきます。
 いわゆる底辺校と呼ばれる学校にはこういう生徒がわんさといますが、彼らが「できない」のは彼らの自己責任でしょうか。確かに彼らが「勉強できない」のは、勉強をしようとしないからです。でも彼らが勉強しようとしない背景にはいろいろな事情があるはずです。それを全部すっ飛ばして「お前が勉強できないのは、お前の自己責任である。以上終わり」ではあまりに薄情ではないでしょうか。

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