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『歎異抄』を読む(その98) ブログトップ

8月22日(水) [『歎異抄』を読む(その98)]

 「お前が勉強できないのは、お前の自己責任である。以上終わり」ではあまりに薄情ではないか、ということでした。
 本人が「オレが勉強できないのは親のせいだ」とか「学校が悪い」などと言い出しましたら、「責任を転嫁するんじゃない」と叱らなければなりません。「それはお前が勉強しないからで、誰のせいでもない」と言わなければなりません。
 でも、そう言いながらも、どうして勉強しようとしないのだろう、どこかで躓いているのだろうが、一度じっくり話してみようかと思ってくれる人が一人でもいてくれるから、彼はグレルことなくやってこられたのです。周りの人がみんな、それはお前の自己責任だという姿勢で臨めば、彼はもう自暴自棄にならざるを得ません。
 本人は自力の姿勢を失わないようにしなければなりません。どこまでも自己責任で貫かなければなりません。でも、本人が自己責任の姿勢を貫くためにも、周りの優しいまなざしが必要なのです。周りの優しいまなざしが他力です。自力には他力が必要なのです。そのことを「わたし」には「あなた」が必要だと言い換えることもできます。
 近代は「わたし」の時代です。デカルトの「われ思う、故にわれあり」には「わたし」しかなく「あなた」の姿はどこにもありません。でも、「わたし」が確かに存在すると言うためには、「あなた」が是非とも必要なのです。「あなた」が「おかえりなさい」と言ってくれているから、「わたし」は「ただいま」と帰っていけるのです。これが親鸞の他力の思想です。

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