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『歎異抄』を読む(その99) ブログトップ

8月23日(木) [『歎異抄』を読む(その99)]

 ここでもう一度「念仏は行者のために非行・非善なり」に戻りましょう。念仏は自力でするものではないから、われらの行でもわれらの善でもないということです。「念仏を自分がしていると思うじゃないぞ」ということで、これまで何度も出てきたことです。
 そう言われて分かったつもりになるのですが、どこか釈然としないものが残っているのでしょう、またぞろ「でもなあ…」と疑いが湧いてくるのです。いくら他力だと言われても、「南無阿弥陀仏」と口で称えるのは自分だから、やはり念仏は自分の行であり、自分の善ではないかと。
 「信心は非行・非善なり」でしたら素直にうなずけます。「賜りたる信心」ということばにはちっとも無理を感じません。信心とは、「そのままで救われる」の声が聞こえて、喜びがあふれることですから。でも「賜りたる念仏」と言われますと、それはそうだけど…、と何かが胸につかえるのです。
 何かを「する」以上、そこには自分がいます。痴呆老人は自分が誰か分からなくなりますが、自分が自分であることを忘れることはありません。ぼくらも一瞬「われを忘れる」ことはありますが、われがわれであることを手放すことは絶対にありません。「わたし」はかくも強いのです。
 念仏も「する」ことですから、そこには「わたし」がいます。「わたし」が念仏しようと思って念仏しているのです。それがどうして他力なのか。

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