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8月24日(金) [『歎異抄』を読む(その100)]

 ぼくらは自力の反対が他力だと思います。
 これまで何度も自力と他力を対比しながら、浄土の真実は自力にはなく他力にあると述べてきました。ですから自力と他力は対極にあると思います。でも、自力と他力は、同じ平面上のこちらに自力、あちらに他力というふうにはなっていません。例えば、男の反対は女で、両者は同一平面上の対極にありますが、それとは全く異なるのです。
 同じ平面上にないとしますと、どうなっているのか。
 ぼくの頭には一枚のコインが浮かびます。その表が自力で、裏が他力。コインの表を見る限り、隅から隅まですべて自力で、他力の入る隙間はありません。でも、ひょいとひっくり返すと、今度はすべて他力で、もう自力などとこにもありません。しかし、表も裏も同じコインです。
 前に曽我量深氏の「前姿と後姿」を引き合いに出したことがあります。ぼくらは自分の前姿しか見ることができないが、他の人たちは後姿を見ているということです。念仏する姿を自分で見る限り、どこまでも自力です。自分で念仏しようと思って念仏しているのですから、どう見ても自力です。
 ところがその後姿は他力なのです。「わたし」が念仏しているのではなく、「あなた」が念仏しているのです。それは「いのちの声」です。「いのち」があって、それが声を出しているのではありません。「いのち」が声なのです。阿弥陀仏がいて、「そのままで救われる」の声を出しているのではありません。「そのままで救われる」の声が阿弥陀仏なのです。
 「南無阿弥陀仏」は「いのちの声」です。

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