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『歎異抄』を読む(その101) ブログトップ

8月25日(土) [『歎異抄』を読む(その101)]

 さて第9章です。ここはぼくの大好きなところです。前にも言いましたように、『歎異抄』の中で唯円と親鸞の対話が出てくるのが、この第9章と、もうひとつ第13章です。どちらも対話の描写がなんともみごとで、その場にいるかのような感じにさせてくれるのです。では読んでみましょう。まずは前半です。
 念仏まうしさふらへども、踊躍歓喜のこころ、をろそかにさふらふこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのさふらはぬは、いかにとさふらふべきことにてさふらふやらんと、まうしいれてさふらひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり、地にをどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。
 「念仏を申しましても、心躍るばかりに嬉しい気持ちが起こりませんし、また急いで浄土へ往きたいという心も起こりませんのは、どうしたことでしょう」と申しましたところ、「私(親鸞)もその疑問を感じていましたが、あなた(唯円房)も同じことを思っていたのですね。よくよく考えてみますと、天に踊り、地に踊るほど嬉しいはずなのに、嬉しく思わないのは、いよいよ往生は確実と思うべきです。嬉しく思う心を抑えて嬉しく思わせないのは煩悩の所為です。仏が前もって我らは煩悩にまみれた凡夫だと教えて下さっていたのですから、他力の悲願はそのような我らのためだと知ることができて、いよいよ頼もしく思えるのです。

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