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『歎異抄』を読む(その102) ブログトップ

8月26日(日) [『歎異抄』を読む(その102)]

 第9章の後半です。ここで飾りも衒いもない素の親鸞に出会えます。
 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩の興盛にさふらふこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁つきて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころのなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたくさふらはんには、煩悩のなきやらんと、あやしくさふらひなましと、云々。
 「また浄土へ急いで行きたいという気持ちがなく、ちょっとした病気でも死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩の所為です。これまでずーっと生々流転してきた苦悩の故郷は捨てがたく、まだ行ったことのない安養の浄土を恋しく思わないのは、まことによくよく煩悩が盛んだからこそです。名残惜しく思いながらも、娑婆の縁が尽きて、力なくこの世を終わらなければならない時に、あの世に行けばいいのです。急いで浄土に往こうという気持ちのないものを特に憐れんで下さっているのです。それにつけても、いよいよ弥陀の大悲大願は頼もしく思われ、往生は確実と思われるではありませんか。逆に、躍り上がりたくなるほど嬉しく、急いで浄土へ往きたいなどと思うようでしたら、煩悩がないのではないかと、奇妙に思うことでしょう。」

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