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8月28日(火) [『歎異抄』を読む(その104)]

 この間のことです、コーヒーショップでの気楽な語らいでこんな話題が出ました。1960年代と最近とを比較してみると、死後の世界を信じる人の割合が倍増しているというのです。昔は20パーセントぐらいだったのが、今は40パーセントほどに跳ね上がっているそうです。「それだけ神秘主義的な傾向が強まっているということでしょうね」とうなずきあっているとき、ひとりが「でも、ぼくは素朴に死後を信じていますし、輪廻ということも受け入れられますよ」と言われました。
 ぼくも死ぬことを旅立ち(死出の旅路)と捉えることには親しみを感じます。死ぬときには妻に「先に行ってるよ」と言いたいなと思います。逆に妻を見送るときには「じきに行くからね」と言おうと思います。このように死を未知の国への一人旅と見る感覚はぼくにとってこころを和ませてくれるものですが、それと「死後の世界を信じる」こととはどこか違うような気がするのです。しかし、どこが違うのか微妙で、なかなかことばにならない。
 誰かから「あなたは死後の世界を信じますか」と訊かれたら、「信じます」とは答えないと思います。でも「信じません」と強く言うことにもためらいがあります。ぼくは釈迦の姿勢を見習おうと思います。「無記」という姿勢です。イエスともノーとも答えない。答えるとすれば「ぼくには死後のことは分かりません」でしょうか。「いや、分からないから信じるのだ」と追撃されたら、「それが信じるということでしたら、ぼくにはできそうにありません」と逃げるでしょう。

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