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『歎異抄』を読む(その108) ブログトップ

9月1日(土) [『歎異抄』を読む(その108)]

 「わたしも、ちょっと病気にでもなれば、死んでしまうのではないかと心細くなるのですよ」と言った親鸞は、「それが煩悩というものです」と続けます。そして「弥陀の本願はそうした煩悩具足の凡夫のためにあるのですから、それでこそ救われるのです」と言うのです。ここが第9章の一番大事なところです。煩悩にまみれた身だからこそ救われる。悪人こそ救われるというのはそういうことです。
 少し前に死刑に関連してこう言いました。「お前は生きている資格がない」などとは誰にも言えないが、愛する妻子を惨たらしく殺された本村さんのような立場になればそう言いたくなる。でも、そう言いたくなるのは決して「正しい」のではなく、あくまで「煩悩の所為」なのだと。「それは煩悩というものだ」と思うことが肝心だと。同じように、「まだ死にたくない」と思うのも煩悩というものです。
 「それが煩悩というもの」と思えたら、それで煩悩の呪縛から解き放たれるのです。煩悩そのものから解き放たれるのではありません。ぼくらは死ぬまで煩悩と付き合っていかなければなりません。でも、これは煩悩の所為だと思えると、不思議なことに煩悩に縛られなくなり、その結果煩悩がもたらす苦しみが和らぐのです。その点をこれからじっくり考えようと思います。
 あるとき、こんな質問を戴きました。自分はもう煩悩のかたまりのような人間だと思うのですが、そう思うのも自力ではなく他力でしょうか、という質問です。とっさのことでうまく答えることができませんでした。あらためてはっきり答えてみたいと思います。

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