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『歎異抄』を読む(その110) ブログトップ

9月3日(月) [『歎異抄』を読む(その110)]

 「機の深信」と「法の深信」。
 これを二種深信と言いますが、文字通り二種類の信心がある訳ではありません。信心は一つしかありません。それを機、つまり救われる自分の側から見るか、それとも法、つまり救う本願の側から見るかの違いで「機の深信」、「法の深信」と言うだけです。同じものをどちらから見るかで違うだけです。そして信心は如来より賜りたるものですから、どちらも他力であることは言うまでもありません。
 ところが、どうかすると、まず「機の深信」があって、その後に「法の深信」があるかのように思ってしまいます。「機の深信」が「法の深信」の前提条件であるかのように考えてしまうのです。「自分は煩悩まみれの凡夫」と自覚することがなければ、決して「そのままで救われる」という声は届かないというように。
 しかし、もしもそのように「法の深信」のためには「機の深信」が前提条件として必要だとしますと、「法の深信」が無条件ではなくなります。「機の深信」というハードルを自力で越えられた人だけが「法の深信」に与ることができることになります。これでは他力の教えが台無しです。
 親鸞という人はほんとうに「機の深信」の人だなあと感じます。先ほどの「とても地獄は一定すみかぞかし」や「そくばくの業をもちける身」ということばもそうですが、『教行信証』にも、突然深い詠嘆のことばが現れます、「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」と。

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