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『歎異抄』を読む(その111) ブログトップ

9月4日(火) [『歎異抄』を読む(その111)]

 「かなしきかな愚禿鸞」ということばは、本願に出会えた喜び、「なむあみだぶ」を聞かせてもらえた喜びのことばの中に出てきます。ですから「突如」という感じを与えるのですが、法を聞くことができた喜びと、己の煩悩を見つめる悲しさとが同居しているのです。
 「まだ死にたくない」と思うのも煩悩だという話に戻りまして、ただ闇雲に「まだ死にたくない」と思っているのと、「まだ死にたくない」と思いつつ「これも煩悩というものだ」と思うのを改めて比べてみましょう。「これも煩悩だ」と気づいたからと言って煩悩がなくなってくれる訳ではありません。それまでと全く同じように「まだ死にたくない」と思っています。ですから、煩悩に気づこうが気づくまいが何も変わらないように思えます。
 あるいは、誰かに激しい怒りを覚える場合、ただひたすら「あの野郎!」と思うだけのときと、「あの野郎!」と思いつつ「これは煩悩のなせる業だ」と感じるのとでは、何か違うでしょうか。「これは煩悩だ」と思っても怒りが軽くなる訳ではありません。同じように激しく怒っています。じゃあ何も変わらないのかと言うと、何かが微妙に違います。
 それは、「これは煩悩だ」と思っている人の表情に現れています。表情がどこか和らいでいるのです。「これは煩悩の所為だ」と思えるのは、「そのままで救われる」という声が聞こえているからで、その声が聞こえることで煩悩による苦しみを和らげてくれるのです。煩悩そのものが和らぐことはありません。でも、煩悩による痛みが和らぐのです。


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