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『歎異抄』を読む(その113) ブログトップ

9月6日(木) [『歎異抄』を読む(その113)]

 では第10章に進みます。
 念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑにと、おほせさふらひき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして、心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまはりしかども、そのひとびとにともなひて念仏まうさるる老若、そのかずをしらずおはしますなかに、上人のおほせにあらざる異義どもを、近来はおほくおほせられあふてさふらふよし、つたへうけたまはる。いはれなき条々の子細のこと。
 「念仏にははからいがないことが正しいのです。念仏は推しはかることも、説くことも、思量することもできないからです、とおっしゃいました。そもそも親鸞聖人がご在世の昔、おなじ志を持って関東からはるばる京にのぼり、信をひとつにして浄土への往生を願い、一緒に親鸞聖人のおことばを聞かせていただきました。そのひとびとについて念仏をする老若は数え切れないぐらいですが、近年多くの人が聖人の仰せとは異なることを言い合っておられるように伝え聞きます。それらのいわれのない考えを一つずつ取り上げてまいります。」
 一読して、構成に不自然さを感じます。途中で急に転調していて、一つに統一された文章とは思えないのです。どう見ても異質の文章がどういう訳か一つに合体されたという感じを受けます。何らかの事情があって、写本の過程でこういう形になったのではないでしょうか。

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