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『歎異抄』を読む(その114) ブログトップ

9月7日(金) [『歎異抄』を読む(その114)]

 文章構成の不自然さですが、「念仏には、無義をもて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑにと、おほせさふらひき」だけでは、一つの章として独立させるには短すぎるので、次の部分と合体させてしまったのではないかと思われます。
 その次の部分には全く趣旨の違う文章が来ます。親鸞聖人が亡くなられて時間が経つにつれ「上人のおほせにあらざる異義ども」が目に余るようになってきたから、それらの「いはれなき条々」を一つひとつ子細に批判していきますということで、これはどうみてもこれから書こうとしていることに対する序文です。
 ここで『歎異抄』という本ができた経緯をもう一度振り返っておきますと、親鸞聖人のお弟子さんの唯円という人が、聖人が亡くなり、聖人からお話を聞くことができた直弟子も次々と亡くなっていく中で、「上人のおほせにあらざる異義ども」を言いふらす人たちが増えてきたのを歎き、その間違いを正しておこうという趣旨で書かれたものです。
 ところが、『歎異抄』の構成をみてみますと、いくつか腑に落ちないことがあります。その第一は序文が二つもあるということです。頭に序文がくるのは当たり前ですが、途中、今読みました第10章にもう一つの序文がくる(これを中序と呼んでいます)。一つの本に二つも序文があるというのは不思議です。
 第二は、結びのことばの中に「“大切の証文ども”を抜き出して、目安となりますように、この書に添えておきましょう」という文言があるのですが、その「大切の証文ども」に当たるものが見当たらないのです。元々は添えられていたのだが、いつの間にか脱落してしまったのではないかという推測もあるようですが、そうではなく、第1章から第9章の語録がそれなのではないかとぼくは考えています。

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