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『歎異抄』を読む(その116) ブログトップ

9月9日(日) [『歎異抄』を読む(その116)]

 親鸞は法然のことば「他力には義なきを義とす」の中の「義」を「はからい」と理解しています。ですから「義がない」ということは「はからいがない」ということです。この「はからい」ということばは、これまでのところでもしばしば出てきた含蓄の深いことばです。
 朝起きて「さて今日はまずあれをして、次にこれをして」と段取りをすることが「はからい」です。目標を立て、それに向かってあれこれと計画するのが「はからい」ですから、眼は「こちらから」目標に向かっています。その反対は「向こうから」。「こちらから」掴もうとするのが自力の「はからい」で、「向こうから」与えられるのが他力です。
 ぼくらはともすれば念仏を「こちらから」申すものと考えてしまうのですが、念仏とは実は「向こうから」聞こえてくるものだということです。何と聞こえるかと言いますと「そのままで救われる」と聞こえてくる。救われていない現実に苦しみもがいている時、ふと「そのままで救われる」と聞こえる。これが念仏です。「不可称・不可説・不可思議」と言われる所以です。
 ぼくは大学に入って間もない頃、生きていることが空しく感じられ、家出まがいのことをしたことがあります。生きている実感を持てる場所がどこかにあるはずだと考え、「大学を休学して旅に出ますから、心配しないでください」と書き置きをして自転車で東京を目指したのです。
 ぼくの故郷は奈良ですが、東京まで自転車でどれくらいかかるのか見当もつかないまま、持っていた本を古本屋に売って作ったお金を持って出かけました。実は、東京の江東区に「アリの町」というくず拾いをして生活している一風変わったキリスト教の団体があることを知り、そこに入れてもらおうとしたのです。

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