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『歎異抄』を読む(その120) ブログトップ

9月13日(木) [『歎異抄』を読む(その120)]

 第11章はやや長いので、3段に分けて読みましょう。
 「おまえは誓願(本願)を信じるか、それとも名号(南無阿弥陀仏)を信じるか」と「いひおどろかして」「ひとのこころをまどはす」のはもってのほかであるという昨日の第1段に続いて、次が第2段です。
 誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて、生死をいづべしと信じて、念仏のまうさるるも、如来のおはからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。これは誓願の不思議をむねと信じたてまつれば、名号の不思議も具足して、誓願名号の不思議ひとつにして、さらにことなることなきなり。
 「誓願の不思議なはたらきによって、保ちやすく称えやすい名号を考え出していただき、この名号を称えるものを浄土に迎えようと約束してくださったのですから、この弥陀の大悲大願の不思議な力にたすけられて生死の迷いから抜けられるのだと信じて、念仏をするのも如来のおはからいだと思えば、そこには少しも自分のはからいは混じっていませんから、本願にそって浄土に往生できるのです。このように誓願の不思議なはたらきを第一と信じますと、名号の不思議なはたらきも自ずと具わってくるのですから、誓願の不思議なはたらきも名号の不思議なはたらきも一つで別のものではありません。」
 誓願と名号はひとつのものとはっきり言っています。

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