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『歎異抄』を読む(その126) ブログトップ

9月19日(水) [『歎異抄』を読む(その126)]

 今現に救われていないのに、もうすでに救われている。この矛盾をぼくらは日々生きています。今現に救われていないのは、煩悩の虫どもの所為です。にもかかわらず、もうすでに救われているのは、「そのままで救われている」という声が心に沁みるからです。
 救われていないのに、救われている。どっちなんだと言わないでください。どっちもなんです。ただひたすら救われていないのではありません。それではあまりに悲しすぎる。でもひたすら救われているのでもありません。それではあまりに嬉しすぎる。やはり救われていないけれど、救われているのです。悲しいけれど、嬉しい。
 悲しみの量と喜びの量はつりあっているのではないでしょうか。ものすごく深い悲しみを持つ人は、それに見合う大きさの喜びを持っている。悲しみが少ない人は、その分喜びも少ない、というようになっていると思うのです。
 では第12章に進みましょう。
 例によって、冒頭に結論が述べられます。「経釋をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと、この条すこぶる不足言の義といひつべし」。「経典や論釈を読んで学んでない者は往生できるかどうか分からないということについて。これはいかにも不十分な考えであると言わなければなりません」。これで、第12章は念仏(一般に宗教)と学問との関係についてであることが推しはかれます。
 聖道門から念仏は文字も読めない人のための教えで「あさしいやし」と嘲られることもある中で、われらも経釈を読み学問しなければならないという風潮があったものと思われます。それに対して唯円が念仏の本質を説き、学問との関係を解き明かしているのです。

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