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『歎異抄』を読む(その129) ブログトップ

9月22日(土) [『歎異抄』を読む(その129)]

 親鸞という人も妙好人にはなれなかったのではないでしょうか。だからこそ経典や論釈を引用をしてあの『教行信証』を編む必要があったのです。それは繰り返し「そのままで救われている」ことを聞かせてもらわなければならなかったからです。経典や論釈を読むことによって救われるのではありません。もしそうだとすれば、それらを読めない人たちは救いから漏れてしまいます。
 経典や論釈を読もうが読むまいが救われるのです。ですから「もうすでに救われている」という喜びに包まれている人には「なにの学問かは往生の要なるべきや」です。ただ煩悩の虫たちに操られて「そのままで救われる」ことをすぐ見失ってしまうぼくのような人間には、その都度本願のいわれを聞かせてもらうために経典・論釈が必要なのです。
 ちょっとブレイク。
 これまで「そのままで救われる」という言い方と「そのままで救われている」という言い方を区別することなく使ってきました。しかし前者は「これから救われる」で、後者は「もうすでに救われている」ですから、意味は異なるように思えます。それを一緒くたにしてしまうのは問題かもしれません。本願=名号は「そのままで救われる」と聞こえるのでしょうか、それとも「そのままで救われている」と聞こえるのでしょうか。
 実はどちらも同じことなのです。「そのままで救われる」と聞こえることは「そのままで救われている」ことにほかなりません。逆に、「そのままで救われている」と聞こえることは「そのままで救われる」ことに他なりません。「これから救われる」とは「仏になる」ことであり、「もうすでに救われている」とは「正定聚になる」ことです。これについてはまた詳しく触れることになるでしょう。

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