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『歎異抄』を読む(その131) ブログトップ

9月24日(月) [『歎異抄』を読む(その131)]

 書物を読んで学問するのは「もうすでに救われている」ということを聞かせてもらうためです、というのが第1段でしたが、第2段ではそこから進んで論争が話題となります。当時、聖道門と浄土門との間で激しい法論がありましたが、そのような論争に勝つためには学問をしなければなりません。
 聖道門の側からいろんな論難がなされてくるのに対して、それに立ち向かうためには経典や論釈を研究して、浄土門が大乗仏教の本道を行くものであることを論証しなければならないと考えるのは自然です。法然が『選択本願念仏集』を書き、親鸞が『教行信証』を書いた時、そういう意図が働いていたのは確かでしょう。
 明恵という高山寺の学僧がいます。華厳宗の僧で親鸞と同年ですが、元々法然を学識が高く人徳豊かな高僧として尊敬していたようです。ところが『選択本願念仏集』を一読するや『摧邪輪』という批判書を著し口を極めて罵倒します、法然は「一切衆生の悪知識」であると。
 こんなふうに、南都六宗に天台・真言の二宗を加えた八宗から批判の矢を浴びせられるのですから、それに応戦せざるを得ません。しかしそれは「わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はをとりなり」ということを言うためではありません。念仏は邪宗であるとの批判に対して、下根の凡夫である「われらがためには最上の法」であることを主張するだけです。  
 唯円さんは、相手から専修念仏は浅はかで卑しい教えだと言われても、それと争うなかれと言います。でも、誰かに馬鹿にされたら、それに立ち向かっていきたくなるのが人情ではないでしょうか。

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