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『歎異抄』を読む(その132) ブログトップ

9月25日(火) [『歎異抄』を読む(その132)]

 更新が遅れました。お前の信仰は「あさしいやし」と馬鹿にされても、争わずに済むものかどうかということでした。
 以前テレビを見ていましたら、精神科の医者が出てきて簡単に性格判断する方法があると言われます。いくつかの質問にイエスかノーかを答えることで、その人が情緒型か論理型か行動型か闘争型か職人型かが分かると言われますので、ぼくはきっと論理型だろうなと思いながらその性格テストを受けてみますと、典型的な闘争型でした。一緒にやっていた妻がその結果に大喜びしていました、「ほーら、わたしが言ってる通りでしょ」と。と言いますのは、ハンドルを握るとやたら闘争的になるぼくを、助手席の妻はいつもヒヤヒヤしながら見ているからです。
 お前の信仰は浅はかでつまらんなんて言われたら、そんなことを言うやつと争いたくなります。でも考えてみますと、馬鹿にしてくる相手と争うというのは、その相手と同じ土俵に立つということです。相手は「自分の方が優れていて、お前は劣っている」と主張しているのですが、「いや、わが方こそ優れている」などと言い返すのは、全く同じ精神構造です。互いに見比べてどちらが上だ下だと争うのは「こちらから」の精神です。何かの目標を目指して進んでいく。そしてどちらが先に目標に到達できるかを競い合うということです。自力の立場です。どちらも自力の立場だから競い合いになりますが、自力と他力では競い合うことができません。
 とは言いながら「お前が信じていることはつまらん」などと言われたら、闘争型のぼくとしてはムッとします。そして「お前こそつまらん」と言い返したくなります。ぼくの中の怒り虫が黙ってはいないのです。やはり「諍論のところには、もろもろの煩悩をこる、智者遠離すべき」です。君子危うきに近寄らずということです。

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