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『歎異抄』を読む(その134) ブログトップ

9月27日(木) [『歎異抄』を読む(その134)]

 第2段で、他の宗派から念仏は「あさしいやし」と言われて、それと争おうとするのは、念仏を自力の立場に貶めるものだと言われていました。向こうから「そのままで救われている」という声が聞こえて、それが身に沁みるのが他力ですから、そこには他と競い合う要素は全くないはずです。
 誰かが念仏は「あさしいやし」と喧嘩を吹っかけてきても、「あなたにとってはつまらないかもしれませんが、われらにとってこれしかないのですから、妨げなさいませんよう」と相手と言い争いをしようとしなければ喧嘩になることはないと言うのです。
 この前ぼくが所属している読書会でおもしろい本が取り上げられました。『お寺の鐘は鳴らなかった』というタイトルの本で、真宗大谷派が戦前どんなふうに戦争に協力してきたかという内容です。書いた人は大谷派の若いお坊さんです。本来いのちの大切さを説かなければならない教団がどうして戦争を煽るような行動をとったのかという重い問題意識から書かれています。
 もちろん戦争に協力したのは大谷派だけではありません。ほぼすべての宗教者たちが天皇に忠誠を誓い、戦争協力の道を走ってきたのですが、著者は自分の属する大谷派がどうしてそうなってしまったのかをしっかり見つめ直さなければ、自分の信仰そのものが問われると感じたのでしょう。
 詳しくその内容を説明している余裕はありませんので、興味のある方はこの本をお読みいただきたいのですが、ぼくが関心を持ったのは、戦前の大谷派が戦争協力を正当化するために取り上げた「真俗二諦」という教義です。

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