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『歎異抄』を読む(その137) ブログトップ

9月30日(日) [『歎異抄』を読む(その137)]

 ちょっと横にそれますが、「争い」についての親鸞の姿勢をぼくらの日常に生かせないか考えてみたいと思います。
 いま領土を巡る争いがぼくらのこころを重苦しくさせています。そのニュースが流れるたびに「何でこんなことになるのか」とやり切れなくなります。歴人社のHPでこの問題を取り上げていますので、見ていただきたいと思いますが(歴人社で検索できます)、ここでは、親鸞ならこうした争いについてどう言うだろうと考えてみたいのです。
 やはり「できるだけ争うな」と言うのではないでしょうか。
 もちろん、ぼくらが生きていく上で争いを避けることはできません。場合によっては激しく争わなければならないときもあるでしょう。でも、「これはオレのものだ」という土俵で争っても、結局は怒りと悲しみが残るだけです。ぼくには「椅子取りゲーム」が頭に浮かびます。椅子に座れなかった人は悲嘆にくれるでしょうが、首尾よく椅子に座れた人も、座れなかった人のことを考えると手放しに喜ぶことはできません。「これはオレのものだ」という土俵で争う限り、この宿命から逃れることはできません。
 でも、争いの姿勢をとらないということは、「はい、左様でございますか」と相手の言うことをそのまま受け入れることではありません。「尖閣も竹島もあなたたちのものです」とシャッポを脱ぐことではありません。そうではなく、「これは誰のものか」と問いを立てるのをやめ、「これをみんなで使うにはどうしたらいいか」という問いに代えるということです。尖閣も竹島も人の住めるようなところではなさそうですから、問題は漁業と海底資源を巡って周辺諸国がどのように互恵関係を結べるかということです。それで争いがなくなるわけではありませんが、できるだけ争わないようにすることはできるのではないでしょうか。

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