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『歎異抄』を読む(その142) ブログトップ

10月5日(金) [『歎異抄』を読む(その142)]

 大変なことになってきました。善いことをするのも悪いことをするのも宿業だということになりますと、ぼくらは自由でないということになり、責任というものを一切問えなくなります。もう社会生活を営むことができなくなるのです。
 しかし、その一方で宿業の考え方の正しさは有無を言わさない力で迫ってきます。「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず」ということばには千金の重みがあります。
 どう考えればいいのでしょう。
 具体的な場面で考えてみましょう。ある人が気がついたら部屋の中で一人になっており、横を見ると机の上に見るからに値段の高そうなバッグが置いてあります。誰かが忘れていったようで、見回しても辺りには誰もいません。
 そんな時ふと魔が差すことがあります。「持っていっちゃえ」という声がするのです。「中に大金が入っているかもしれないぞ、それに誰も見ていないからバレやしないよ」と。と同時に、こんな声もします、「馬鹿なことを考えちゃいかん、人さまのものに手を出すなんてとんでもないことだ」と。
 「声がする」という言い方をしました。部屋の中には自分しかいないのですから、実際にそんな声がする訳はないのですが、それでも誰かがそう語りかけているように感じるのです。そしてこの二つの声の間で迷いが生じます。
 「持っていっちゃえ」が勝ったとしましょう。その時その人は自由に振る舞ったのでしょうか、それともそのようになったのも宿業によるのでしょうか。

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