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『歎異抄』を読む(その143) ブログトップ

10月6日(土) [『歎異抄』を読む(その143)]

 「持っていっちゃえ」と「人さまのものに手を出すな」との間で迷い、結局「持っていっちゃえ」を選んだという意味では自由に振る舞ったのです。「人さまのものに手を出すな」を選ぶこともできたはずです。実際多くの人はこちらを選び、バッグを忘れ物として届け出ることでしょう。にもかかわらずバッグを盗むことを選んだ。これは自由な意思でそうしたということです。
 でも、その時のこころのうちを覗いてみますと、「持っていっちゃえ」を選んだというよりも、「持っていっちゃえ」という声に引っさらわれたという感じです。「人さまのものに手を出すな」という声もしていたはずですが、もうそれをかき消してしまうほどの力で「持っていっちゃえ」の声が圧倒した。まさに「魔が差した」としか言いようがありません。
 その時金に困っていたのかもしれません。懐具合がよければ「人さまのものに手を出すな」という声が勝ちを制していたでしょうが、金がなかったものですから「持っていっちゃえ」という声に流されてしまった。宿業というのはこういうことを指しているのではないでしょうか。何らかの因縁で、どこかから聞こえてくる声のままに振る舞ってしまう。そして気がついたら手がバッグに伸びていた。これが宿業です。
 ぼくらは確かに自由です。それはぼくらが社会生活を送るための大前提です。でも、だからと言って、自分の心のままに善いことをしたり悪いことをしたりできるものではありません。孫悟空は自由に飛び跳ねています。でもふと気がついてみると、それはすべてお釈迦さまの手のひらの上だったということです。


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