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『歎異抄』を読む(その144) ブログトップ

10月7日(日) [『歎異抄』を読む(その144)]

 では第13章の第2段に進みます。
 そのかみ邪見におちたるひとあ(り)て、悪をつくりたるものをたすけんといふ願にてましませばとて、わざとこのみて悪をつくりて、往生の業とすべきよしをいひて、やうやうにあしざまなることのきこえさふらひしとき、御消息に、くすりあればとて毒をこのむべからずとあそばされてさふらふは、かの邪執をやめんがためなり。またく悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒持律にてのみ本願を信ずべくば、われらいかでか生死をはなるべきや。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられさふらへ。さればとて身にそなへざらん悪業は、よもつくられさふらはじものを。
 その昔、誤った考えを持つ人たちが現れ、弥陀の本願は悪いことをする者のための願なのだから、わざと好んで悪いことをすることが往生のためなのだと言いあっていると、さまざまな悪いうわさが伝わってきた時、聖人がお手紙で、薬があるからといって毒を好むものではありません、と諌められましたが、それはそうした誤った考えをやめさせようとしてのことです。それは決して悪いことをすることが往生の妨げになるということではありません。もし戒律を守ってはじめて本願を信じることができるのでしたら、われわれはどのようにして迷いの世界から抜け出すことができましょう。このような浅ましい身でも本願に遇うことができたのですからこそ、本当に本願を誇りに思うことができるのです。でも、だからといって、身に備わっていない悪業は、しようとしてもできるものではありません。

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