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『歎異抄』を読む(その145) ブログトップ

10月8日(月) [『歎異抄』を読む(その145)]

 唯円さんはここで、親鸞が手紙の中で本願ぼこりの人を誡めているのは、もうすでに救われているのだからと言って、何をしたっていいのだと浮かれてはいけません、ということであって、決して悪いことをした人は往生できないと言っているのではありませんよと注意しているのです。
 親鸞の教えの根幹は「どんな悪人もそのままで救われる」という点にあります。でも、だからと言って何をしてもいいということにはなりませんよ、と言うのですが、この違いはしかし非常に微妙です。
 「そのままで救われる」と聞かせてもらえた嬉しさから、もう何をしたってかまわないとはしゃぐ気持ちも理解できない訳ではありません。これまでは「お前のような悪党は地獄行きだ」と言われてきたのです。それを「お前のような悪人こそ救ってもらえるのだ」と聞かせてもらった喜びはいかばかりでしょう。天に踊り、地に躍るほどに嬉しいのも無理からぬことだと思います。
 そこから本願ぼこりという現象が現れました。「そーか、こんな悪人のオレが救われるのか、ならばもう遠慮することはない、どんどん悪いことをしてやろうじゃないか。悪いことをすればするほど救われるというんだから」と調子に乗るやからが出てきたのです。
 そこで親鸞は「くすりあればとて毒をこのむべからず」と言います。このたとえは非常に分かりやすい。薬というのは本願のことです。「そのままで救われる」と聞かせてもらうことです。そう聞かせてもらえますと、煩悩による苦しみがすーっと和らぎます。強力な鎮痛剤です。この薬のお陰でぼくらは煩悩にまみれながらも生きていくことができるのですから。

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