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10月9日(火) [『歎異抄』を読む(その146)]

 ぼくは酒を飲みすぎたあくる日しばしば強烈な頭痛に襲われます。にもかかわらずまたつい調子に乗って飲みすぎてしまう。で、そんな時に鎮痛剤の厄介になりますが、飲んで一、二時間もすればすっかり頭痛のことなど忘れています。
 さて、そんな有難い薬があるからといって、よーし、それではこれからも飲み過ごしてやろうと思うでしょうか。あの二日酔いの辛さを味わいますと、もう二度とこんな思いは御免だと思います。鎮痛剤があるからといって、これからも飲み過ごしてやろうとは思いません、あんな辛い思いをするのは嫌だからです。よーし、これからも二日酔いなんて気にせずにじゃんじゃん飲んでやろうと思うのは、本当は二日酔いを辛いと思っていない人です。
 こう見てきますと、「本願という薬があるのだから、これからもどんどん悪いことをしてやろう」などと思うのは、本当は薬の有難さを感じていないからです。本願の有難さを感じていないのです。そして本願の有難さを感じるのは、救われていない現実にもがき苦しんでいるからです。「こんな自分じゃ救われるはずがない」と思っているとき「そのままで救われる」と聞かせてもらえて嬉しいのです。
 そのように嬉しさを噛み締めている時、「よーし、それじゃこれからも悪いことをどんどんしてやろう」などと思うでしょうか。逆でしょう。「あゝ、こんな自分がそのままで救われる」という喜びからは、「これからは少しでも悪いことをしないように努めよう」という思いが湧いてくるはずです。そう思ってもまた悪いことを繰り返します。それが凡夫の悲しさですが、でも、悪いことをしたってかまわないさと開き直ることはなくなると思うのです。

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