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『歎異抄』を読む(その157) ブログトップ

10月20日(土) [『歎異抄』を読む(その157)]

 一念発起するとき、もうすでに正定聚の位につかせてもらえるのですから、一生申す念仏は、滅罪のためなんかではなく、弥陀の大悲の恩を報じるものでなければなりません、と唯円は言います。
 ここに「報恩の念仏」という思想が現れています。
 「他力の念仏とは報恩の念仏」というこの考えは真宗門徒の間に広く行きわたっています。それは蓮如が「お文」の中で繰り返し説いたことによると思います。第一通にはすでに「信心決定のうえに、仏恩報尽のために念仏もうす」とあり、第二通には「たとい行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じもうす念仏なりとおもうべきなり」とあります。さらに第三通には「御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもいて、念仏もうすべきなり」とありますように、蓮如は機会あるごとに「報恩の念仏」を説いているのです。蓮如のお文が如何に大きな影響力を持ったかは言うまでもありません。
 こうして他力の念仏は報恩の念仏でなければならないという立場が確立していったのですが、その元をたどればこの唯円のことばにあると言えます。
 蓮如が『歎異抄』をどれほど大事にしていたかは、蓮如自身がこれを書写していることからもうかがえます。『歎異抄』の原本は伝わっておらず、何点かの書写本しか残っていませんが、蓮如本がその最古のものです。そして蓮如は奥書でこう記しています、「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり。釈蓮如」と。蓮如が『歎異抄』を「当流大事の聖教」と見ていたことがはっきり書かれています。

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