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『歎異抄』を読む(その160) ブログトップ

10月23日(火) [『歎異抄』を読む(その160)]

 この箇所を読みますと、あの「耳なし芳一」の話を思い出します。全身に経文をびっしり書いて亡霊から身を守ろうとしたのですが、耳だけ書くのを忘れてしまったものですから、哀れにも耳を切り取られてしまった琵琶法師の話です。
 もし念仏で罪を消さなければならないのだとしたら、もう隙間なく念仏をし続けなければなりません。ぼくらの「おもひとおもふこと、みな生死のきづな」ではないものはないからです。「生死のきづな」というのは、この迷いの世界に繋ぎとめるものという意味でしょう。ぼくらが思うこと、行うことはすべてが煩悩のなせる業で、何一つとして罪でないものはないということです。
 それは言いすぎだろう、そりゃぼくらは罪を犯すが、たまには善いこともするじゃないかと言われるかもしれません。でも、よくよく考えてみますと、ぼくらの言動はみな「生きんかな」という思いから出ています。「生き物地球紀行」というNHKの番組をよく見ますが、生き物たちを見ていますと「とにかく生き抜こう、生きて子孫を残こそう」と必死です。
 人間だけが例外であるはずがありません。自虐的になっている訳ではありませんが、善いことにも悪いことにも「生きんかな」の色がついているのです。「生きんかな」として、時に善いことをし、時に悪いことをするのです。こうして「おもひとおもふこと、みな生死のきづな」となります。
 罪を滅するために念仏するとしますと、もう寝ても覚めても、追いかけられるように念仏しなければなりません。これが経に「信心歓喜」と言われる世界でしょうか。

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