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『歎異抄』を読む(その162) ブログトップ

10月25日(木) [『歎異抄』を読む(その162)]

 第14章は「念仏を滅罪の行と捉える」異義を取り上げましたが、第15章は「煩悩具足の身のままで悟りをひらくことができるとする」異議を取り上げます。ここは親鸞の浄土思想の根幹に関わるところで、それだけに話が非常に微妙になります。
 2段に分けます。まず第1段。
 煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくといふこと、この条、もてのほかのことにさふらふ。即身成仏は真言秘教の本意、三蜜行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感得なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は、他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆへなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おほよそ今生にをいては、煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言法華を行ずる浄侶、なをもて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、盡十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはさふらへ。
 煩悩にまみれたこの身のまま、この世で悟りをひらくというのは、もってのほかのことです。この身のままで仏になるというのは、真言密教の極意であり、三蜜と呼ばれる修行の結果です。また心身が清浄になるというのは、法華宗の一乗の教えで、四安楽と呼ばれる修行によって成し遂げられることです。これらはみな難行であり、優れた能力の人たちがとる道で、観念を集中することによって得られる悟りです。それに対して、来生で悟りをひらくというのが浄土他力の教えで、本願を信じることによって来生の悟りが決定されるのです。これは易行ですから能力の劣った者たちの道で、身の善悪を選ばない法です。大体この世で煩悩悪障を断ち切ることなどほとんどあり得ないことですから、真言宗や法華宗の修行に励む身の清浄な僧侶たちでさえ次の世での悟りを期しているのです。まして、戒律も智慧もない私たちでありますから、弥陀の願船に乗せていただき生死の苦海を渡らせていただくしかありません。そして、浄土の岸に着かせていただきましたら、煩悩の黒雲はたちまちにして晴れ、悟りの月が速やかに現れて、阿弥陀仏の無限の光明とひとつとなって、一切の衆生を救うことができるのですが、そうであってこそ、悟りをひらいたと言えるのです。
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