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『歎異抄』を読む(その165) ブログトップ

10月28日(日) [『歎異抄』を読む(その165)]

 あの世で仏となるということは、これまでぼくらを苦しめてきた煩悩から解放されるということですから、人間や畜生に生まれ変わったり、ましてや地獄におちたりするのと比べると何と有難いことでしょう。でも如何せん、それは死んでからのことです。そこから、そんなの何の意味もないではないか、今生で仏になってはじめて意味がある、という声が出てくるでしょう。
 これが「即身成仏」の立場ですが、どう考えたらいいでしょう。
 日常の経験を例に考えてみましょう。高校教師時代のある時期、非常にしんどい職場にいたことがあります。教育困難校と呼ばれる学校で、毎日が地獄のような苦しみでした。そんな時、次の年に別の学校に転勤できるという知らせが来たとしましょう。その学校は教師も生徒も生き生きしているとてもいい学校だそうです。それを聞くと、身も心も軽くならないでしょうか。その知らせを聞いたからといって、周りの現実が何か変わる訳ではありません。地獄のような苦しみの日々であることに何の変化もありません。でも何だか心が穏やかです。苦しいながらも表情が緩んでいます。
 同じように、今は次々と襲ってくる苦しみにのたうち回っていても、それは煩悩の所為で、死んだらすべての煩悩から解放されると聞かせてもらえたら、身も心も軽くならないでしょうか。これまではただひたすら苦しみに閉ざされていたが、苦しみの原因が煩悩にあり、死んだら煩悩から解放されると気づけば、それによって煩悩がほんの少しでも減る訳ではありませんが、もう煩悩に囚われることがなくなるはずです。その結果として苦しみが和らぐのではないでしょうか。逆に、そのことに気づかなければ、いつまでも苦しみに閉ざされたままです。

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