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『歎異抄』を読む(その167) ブログトップ

10月30日(火) [『歎異抄』を読む(その167)]

 さなぎは変態して蝶になります。それをさなぎの側から言いますと、「さなぎは蝶になる」としか言えませんが、それを蝶の側から言いますと「さなぎは蝶である」でしょう。蝶になった立場からさなぎを見ますと、なるほど自分と全く違った姿かたちをしていますが、それは蝶になる過程でまとっている仮の姿にすぎません。ですから、さなぎ(の本質)は蝶なのです。
 こんなふうに、「蝶になる」と「蝶である」とはまるで違うことを言っているようですが、さなぎの側から言うか、蝶の側から言うかの違いだけで、同じことを言っているのです。同様に、われらの側からは「衆生は仏になる」としか言えませんが、仏の側から言えば「衆生は仏である」となります。「仏になる」と「仏である」は同じことなのです。
 「一切衆生悉有仏性」ということばがあります。すべての衆生には仏の種が宿っているという意味で、これを衆生の側から言いますと「衆生はこれから仏となる」となりますが、仏の側から言えば「衆生はすでに仏である」ということです。「仏になる」と「仏である」とは、衆生の側から言うか、仏の側から言うかの違いに過ぎず、同じことを言っているのです。
 としますと、「来生に仏となる」という言い回しは、仏から言えば「すでに仏である」のですが、衆生としてはそれを来生に投影して言わざるをえないということです。何故なら、われわれは煩悩にまみれているからです。こう言ってもいい、「一切衆生悉有仏性」でありながら、同時に「一切衆生悉有煩悩」でもあると。煩悩にまみれながら「すでに仏である」などと言える訳がありません。

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