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『歎異抄』を読む(その169) ブログトップ

11月1日(木) [『歎異抄』を読む(その169)]

 第15章の第2段に進みます。
 この身をもて、さとりをひらくとさふらふなるひとは、釈尊のごとく種々の応化の身をも現じ、三十二相、八十随形好をも具足して、説法利益さふらふにや。これをこそ今生にさとりをひらく本とはまうしさふらへ。和讃にいはく、金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてけるとはさふらへば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれにさふらふをや。浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくと、ならひさふらふぞとこそ、故聖人のおほせにはさふらひしか。
 この身のままで悟りをひらくと言われる人は、釈尊のようにいろいろに身を変え、三十二相、八十随形好とよばれるさまざまな相をもって、人々に法を説くことができるのでしょうか。それでこそ今生に悟りをひらくと言えるのです。聖人の和讃に「金剛のように固い信心が定まった時をもって、弥陀の光明におさめとられ、もう生死の迷いから離れることができるのです」とありますが、信心の定まった時に、ひとたびおさめとって下さればもう捨てられることはないのですから、再び地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道に輪廻することはありません。ですから、永遠に生死の迷いから離れさせていただけるのです。しかし、このように知ることを悟ると言うのでしょうか。そのように言い紛らわすのは何とも哀れなことではありませんか。「浄土の真実の教えでは、今生で本願を信じ、来世で悟りをひらくとお聞きしております」と故聖人は言われたことでした。

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