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『歎異抄』を読む(その176) ブログトップ

11月8日(木) [『歎異抄』を読む(その176)]

 倫理的な改心と宗教的な廻心の違いとして一番大事なことは、倫理的改心は「こちらから」、宗教的廻心は「向こうから」という点です。
 改心というのは、自分のしたことを深く反省し、自分に対して「もう二度とこんなことをしてはいけない」と厳しく言い渡すことです。「もう二度とこんなことをしてはいけない」と聞こえてきただけでは改心したことにはなりません、自分が自分にそう言い聞かせてはじめて改心したと言えます。
 しかし廻心は自分が自分に「このままで救われている」と言うことではありません。どこかから「そのままで救われている」と聞こえてきて、その声が心に沁みることです。どこが違うのかと言われるかもしれませんが、根本的に異なります。「こちらから」言うか、「向こうから」聞こえてくるかの違いです。
 「わたし」が言うか、「あなた」が言うかの違いです。「わたし」が「このままで救われている」と百万遍称えても、疲れるだけです。でも「あなた」が「そのままで救われている」と一遍言ってくれれば、それだけで救われるのです。
 もう一度トンネルの比喩で考えてみましょう。ぼくらの人生は生まれてから死ぬまでトンネルの中さまよっているようなものと考えてみたいのです。行けども行けども暗闇ばかりです。暗闇というのは煩悩の苦しみのことです。一つの苦しみが終ったかと思うとまた次の苦しみが待っています。
 釈迦が「生きることはすべて苦しみである(一切皆苦)」と言った通りです。トンネルの外は果てしない青空とあふれんばかりの陽光なのに、トンネルの中は暗闇に塗り込められています。

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