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『歎異抄』を読む(その178) ブログトップ

11月10日(土) [『歎異抄』を読む(その178)]

 怒りについて考えてみましょう。ぼくらは普段、些細なことで烈火のごとく怒り、そのことで大いに苦しんでいます。秋葉原で驚くべき事件を起こした加藤何某という青年は、会社の中で自分の存在が否定されたと感じ、ネットの中でも居場所を否定されたと感じてキレたのです。それが彼をどれほど苦しめたか。
 彼は己の苦悩を「明晰かつ判明に表象」していたと言えるでしょうか。ただひたすら苦悩の黒闇に閉ざされているだけで、それが苦悩の黒闇であることが分かっていなかったのではないでしょうか。闇しか知らない人は、闇とは何かが分かりません。光を知ってはじめて闇とは何かが分かるのです。
 試しに夜しかない世界に住んでいる人を想像してみましょう。生まれてこの方ずっと夜の世界に住み続け、昼というものを知らないとします。その人に夜ばかりの世界とはどういうものかと尋ねても、キョトンとするのではないでしょうか。彼にとって夜の世界が世界そのものですから、それはどのようなものかと言われても答えようがないのです。昼というものがあると分かって、そうか、これは夜なのだと了解できるのです。
 苦悩の黒闇に閉ざされている人も同じです。光の世界があると分かってはじめて、あゝ、これは闇の世界なのだと了解できるのです。そして、不思議なことに、これは闇の世界だと了解するだけで、苦しみが和らぐのです。闇の世界が光の世界に変わる訳ではありません、今までと同じ闇の世界のままです。しかし何かが今までと違います。この闇の世界の外には光の世界があると思うだけで、闇が和らぐのです。弥陀の光明が「生死の長夜を照ら」すというのは、そういうことです。

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