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『歎異抄』を読む(その179) ブログトップ

11月11日(日) [『歎異抄』を読む(その179)]

 外部があると分かってはじめて、これは内部だと了解できるのですが、外部があるということは、どう頑張っても内部からは分かりません。外部があるということは外部から知らせてもらうしかないのです。
 内部から光を当てることはできますが、その光は内部を照らし出すだけで、決して外部まで届きません。外部からやってくる光が内部を照らしてはじめて、外部に別の世界があることが明らかになるのです。
 トンネルの中で焚いた灯火は内部を照らし出してくれるでしょうが、外部のあることを明らかにはしてくれません。トンネルの出口から差し込む光だけが、外部に明るい世界があることを教えてくれるのです。
 これが廻心ですから、廻心は「ただひとたびあるべし」です。
 親鸞の廻心は「建仁辛(かのと)の酉の暦、雑行をすてゝ本願に帰す」と本人が『教行信証』で述べている通り、建仁元年、西暦では一二〇一年、二十九歳にして法然のもとを訪ねた時のことでしょう。
 しかし廻心したからと言って、「自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおか」すことに何の変わりもありません。廻心したからと言って突然聖人君子に変身する訳でもなく、依然としてトンネルの暗闇の中をさまよい続けなければなりません。でも、心には外の陽光が差しこんでいるのです。

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