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『歎異抄』を読む(その181) ブログトップ

11月13日(火) [『歎異抄』を読む(その181)]

 倫理と宗教、善悪と救いを、「それはそれ、これはこれ」というように分けることはできないと言いました。「あるべき」と「あるがまま」は「あざなえる縄の如く」絡まりあっています。ですから、ふと「そのままで救われていますよ」という声が聞こえた時、「あゝ有難い」と喜ぶものの、「さすが、よからんものをこそ、たすけたまはんずれ(そうは言っても、やっぱり善い人から救われるだろう)」と、「あるがまま」の声に疑いを抱き「あるべき」の心が出てくるのです。
 善い人、悪い人に関わりなく、みんな平等に往生できる、ということに抵抗する心はどこから生まれてくるのでしょう。どうして、善い人が救われるのが当然で、悪い人が救われるのはおかしいと思うのでしょう。新聞やテレビに登場してくる凶悪な犯罪者を頭に浮かべて、「あんなひどい奴と善良な市民が平等であってたまるものか」と思うのはどうしてでしょう。
 凶悪な犯罪者と善良な市民とを比べている時、その人自身は善良な市民の側に入っています。善良な市民の側に立って「あんなひどい奴」を糾弾しているのです。だからこそ、「あんなひどい奴と善良な市民が平等であってたまるか」と思うのです。
 プラットホームで電車を待っているときなど、みんな並んでいるのに、横からすっと割り込んでくる人がいます。無性に腹が立ちますね。また、車を運転していて、工事で車線が規制されているときなど、こちらは大人しく左側車線で並んでいるのに、右側車線を走ってずっと前へ行く車があります。これも腹が立ちます。

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