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『歎異抄』を読む(その188) ブログトップ

11月20日(火) [『歎異抄』を読む(その188)]

 不治の病に苦しんでいる人がいるとします。その人に「あなたは今苦しみに閉ざされていますが、実はもうそのままで救われているのです。あなたはそれに気づいていないだけです」と言ったらどうでしょう。きっと猛烈に反発するのではないでしょうか。「こんなに辛い日々を送っているのに、どこが“そのままで救われている”のだ。これで“もうすでに救われている”と言うのなら、熨斗をつけてきみにくれてやるよ」と。これが本願に疑いを抱くことです。だとしますと、「信心の行者すくなきゆゑに」と言われるのも無理からぬことだと言わなければなりません。
 不治の病の苦しさの底には「なんでよりによってこのオレが」という思いがあります。病気そのものの苦しさもさることながら、みんなはピンピンしているのに、どうしてこの自分が…ということが苦しみの源になっているのです。「今までそれほど悪いこともせず、自分なりに一生懸命やってきたつもりだ。さあこれからという段になってどうしてこの自分が?」という思いが眠れぬ夜を苦しめるのです。そんな時「そのままで救われている」ということばは火に油を注ぐようなものです。
 「なんであいつでなくてこのオレが」と思うのは煩悩というものです。でも、それが煩悩だと気づくかどうか。「これは煩悩というものだ」と気づくのは、自分の置かれている状況には「外」があると気づくことです。この状況には「外」があると気づきさえすれば、そう思いながらもそれに囚われなくなります。ここはトンネルの中だと自覚できれば、だからこそ暗闇に閉ざされているのだと思えて、トンネルの中をさまよいながらも、それに囚われなくなるのです。でも、「なんでこのオレが」の「内」に自閉してしまいますと、もうひたすらこの思いに苦しめられ続けることになります。

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