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『歎異抄』を読む(その195) ブログトップ

11月27日(火) [『歎異抄』を読む(その195)]

 では18章の本題であるお金の問題に戻りましょう。
 「一紙半銭も仏法のかたにいれずとも、他力にこころをなげて、信心ふかくば、それこそ願の本意にてさふらはめ」と唯円さんが言うのは誰しも全面的に正しいと思います。「仏法のかたに施入物の多少にしたがひて、大小仏になるべし」なんて言うのは、「仏法にことをよせて、世間の欲心もあるゆゑに、同朋をいひをどさるる」ことで、とんでもないことです。
 以上終わり、で済めばいいのですが、ここで凡夫ならではの心配が生じるのです。唯円さんがこんなことを言えば、多くの人が「そうか、信心が問題であってお布施なんてどうでもいいんだ」と考えて、これまで普通に出していたお布施を出さなくなったらどうするんだろうという心配です。それでは唯円さんの暮らしが成り立たなくなってしまうじゃないか、唯円さんはそれでもいいのだろうかと気を揉んでしまうのです。
 どうしてそんな心配をするかと言いますと、ぼく自身が暮らしの心配をしているからです。自分の暮らしなんて大した問題ではないなどとは言えないからです。「世間の欲心もあるゆゑ」です。第4章で慈悲心について考えました。ぼくらは地震などの災害に遭われた方にいくばくかのお金を差し上げますが、気前よく財布ごと有り金すべてを渡すことはできません。人を助けてあげたいとは思いますが、同時に自分の生活も大事だからです。その微妙なバランスの上に生きているのです。

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