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『歎異抄』を読む(その196) ブログトップ

11月28日(水) [『歎異抄』を読む(その196)]

 たとえ誰もお布施を出してくれなくても、それはそれで仕方がない、暮らしをどうするかはその時考えればいいと思うことができるかどうか。そんなふうに達観している人をぼくは心底尊敬します。でも口では「一紙半銭も仏法のかたにいれずとも云々」と言いながら、同時に「お金がほしい」と思っている人が大半ではないでしょうか。こんなふうに推測するのを「下衆の勘ぐり」というものかもしれませんが、ぼくのような凡夫にはそこが気になって仕方がないのです。
 口では「お金なんて大した問題じゃない」と言いながら、腹では財布のことを心配しているという矛盾を問題にしたいのではありません、ぼくらは矛盾した言動をしているという事実をしっかり見据えなければならないと言いたいのです。やはりお金を巡ることがらに人間の本質が隠されているような気がします。
 ぼくらはお金についてはなるべく触らないようにするところがあります。お金のことを言うのは、はしたないこと、下品なことだとされます。お金というものは人間の欲望の塊りみたいなものですから、お金のことを話題にするのは、自分や他人の欲望に直に触るようで気が引けるのです。逆に言いますと、そんなふうに隠されたところにこそ人間の本質があるのです。隠されるのは、へそ下三寸と財布の中です。
 隠しているものをわざわざ曝け出すことはありませんが、隠しているということを自覚していることは必要です。隠しているうちに、そのことをすっかり忘れてしまうことがあるからです。そうしますと、「一紙半銭も仏法のかたにいれずとも云々」ということばに何の痛みも感じなくなります。何の矛盾も感じなくなるのです。ぼくらは紛れもない矛盾を生きていることを忘れるわけにはいきません。

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