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『歎異抄』を読む(その197) ブログトップ

11月29日(木) [『歎異抄』を読む(その197)]

 先回で第18章が終わり、あと残すところ、いわゆる「後序」と「流罪記録」だけとなりました。今日から後序に入りたいたいと思います。この部分は『歎異抄』の中で最も長く、唯円さんの味わい深い述懐が綴られています。5段に分けて読みましょう。
 右条々は、みなもて信心のことなるより、をこりさふらふか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおほかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおはしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことさふらひけり。そのゆゑは、善信が信心も聖人の御信心もひとつなりとおほせのさふらひければ、誓観房・念仏房なんどまうす御同朋達もてのほかにあらそひたまひて、いかでか聖人の御信心に、善信坊の信心ひとつにはあるべきぞとさふらひければ、聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに、一ならんとまうさばこそひがごとならめ、往生の信心にをいては、またくことなることなし、ただひとつなりと御返答ありけれども、なをいかでかその義あらんといふ疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まへにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をまうしあげければ、法然聖人のおほせには、源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただひとつなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひさふらはじとおほせさふらひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御ことも、さふらふらんとおぼえさふらふ。 
 これまで見てきました八つの異論は、すべて信心が異なることによって生まれてきたと思われます。故親鸞聖人のお話の中にこんなことがありました。法然聖人が御在世のころのことですが、お弟子さんはたくさんいらっしゃいましたが、親鸞聖人と信心を同じくする人は少なかったのでしょう、親鸞聖人と他のお弟子さんとの間で論争が起こったことがあります。それはどういうことかと言いますと、親鸞聖人が「私の信心と法然聖人の信心はひとつです」と言われたのですが、誓願房や念仏房といったお弟子さんたちがとんでもないと非難され、「どうして法然聖人の信心とあなたの信心がひとつなどということがあろうか」と言われたのです。それに対して、親鸞聖人は「法然聖人の智慧や才覚はひろいものですから、それを私とひとつだなどと言えばとんでもないことでしょうが、往生の信心については全く異なることはありません。ひとつです」と返答されましたところ、なおもお弟子さんたちは「その言い分はまだ納得できない」と非難されますので、結局のところ法然聖人の前でどちらが正しいか決着をつけましょうと、聖人にことの子細を申し上げましたところ、法然聖人は「私の信心も如来からいただいた信心ですし、善信房の信心も如来からいただかれた信心です。ですからひとつです。もし別の信心をお持ちでしたら、私が行きます浄土へは行かれることはありますまい」と言われました。今日の一向専修の人たちの中にも、親鸞聖人の信心とひとつではないことがあるようです。

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