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『歎異抄』を読む(その198) ブログトップ

11月30日(金) [『歎異抄』を読む(その198)]

 ここで唯円さんは「信心はひとつ」ということを述べています。これまで彼が批判してきた八つの異義は、真実の信心はひとつであるはずなのに、それとは異なる信心を持ち出してくることから生まれてくるのだと言うのです。そしてこの「信心はひとつ」ということを言うために、遠い昔の興味深いエピソードを紹介してくれます。このエピソードは、親鸞がまだ若く(三十代前半)、法然のもとで念仏をしていた時代、承元の法難という大嵐が来る前の吉水時代のことです。
 『親鸞聖人伝(でん)絵(ね)』については前に一度紹介しました。親鸞の曾孫である覚如が著した親鸞の伝記です。この中に吉水時代の面白いエピソードがいくつかあるのですが、その一つが前に紹介した「信行両座」です。法然の弟子たちに、信を取るか、行を取るかを迫るという話ですが、本当に親鸞がそんなことをしたのか、ちょっと信じられないような話です。「信も行もひとつ」というのが親鸞の立場だからです。もう一つのエピソードがここに紹介されている話で、この唯円の述懐とほとんど同じ内容の文章が『親鸞聖人伝(でん)絵(ね)』の第七段に出てきます。覚如は唯円から直にこの話を聞き、それを伝記の中に取り入れたと考えられますから、こちらは間違いなく実際にあったことでしょう。
 この話は唯円がしっかり聞き覚えていただけに、とても興味深い内容です。親鸞が「私の信心と法然上人の信心はひとつ」と言ったことに、誓観房や念仏房といった兄弟子たちが「もてのほかにあらそひたまひて」とありますから、よほどカチンときたと思われます。新参者の親鸞があろうことか法然上人と「信心はひとつ」だなどとよくまあ言えたものだということでしょう。信心にも浅い深いの差があるのが道理で、法然上人の深い信心と、まだ入りたての親鸞の浅い信心とが「ひとつ」であるはずがないではないか。馬鹿も休み休みに言えといったところでしょうか。

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