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『歎異抄』を読む(その199) ブログトップ

12月1日(土) [『歎異抄』を読む(その199)]

 確かに何ごとにも人によって差があるのは当たり前のように思います。よく人間は平等だと言いますが、人が平等でないことは一目瞭然です。金持ちの人と貧乏人、カッコいい人と悪い人、もてる人ともてない人。前者はチヤホヤされ、後者は片隅で小さくなっていなければなりません。「人はみな平等」は「そんなことがあってはならない、人は平等でなければならない」と言っているのでしょうか。しかし、カッコいい人がもてはやされ、カッコ悪い人は肩身が狭いのは如何ともしがたいことで、人は平等でなければなどと言ってみても余計惨めになるだけです。
 どうやら「人はみな平等」というのは、人間にはいろいろな格差があるが、〈それにもかかわらず〉平等に扱われなければならないということのようです。金持ちであろうが貧乏人であろうが、そんなことは関係なく対等でなければならない。しかし金持ちと貧乏人とは対等ではありません。金持ちはいい家に住んでごちそうを食べられるが、貧乏人はそれを指をくわえて見ていなければなりません。一体どこで対等になれるというのでしょう。「法の下において」です。法は金持ちも貧乏人も、カッコいい人も悪い人も対等に扱わなければならない。これが平等の意味です。
 以前アメリカで黒人の大学教授が自宅に入ろうとして、どういう訳かドアが開かないのでこじ開けようとしていたところを誰かに見咎められて警察に通報され、やってきた警察官に逮捕されるという事件がありました。その教授とすれば自宅に入ろうとしているのに、何故警察官がくるのだと腹を立てたのでしょう、何か言い合いになって逮捕に至ったと思われますが、ここにはやはり黒人に対する差別が顔を出しています。あやしい人間と見て尋問する、これは警察官としての当然の職務です。法を執行しているのです。しかしその時、相手が白人であるか黒人であるかで扱いに差が出れば、これは法の下に平等とは言えません。法は白人であろうが黒人であろうが全く対等に扱わなければならない、これが平等の意味です。平等は人により差があることを前提にしているのです。

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