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『歎異抄』を読む(その202) ブログトップ

12月4日(火) [『歎異抄』を読む(その202)]

 「向こうから」与えられるものでも、人によって差があるのではないかということでしたが、「えこひいきだ」と感じている生徒や弟は、愛や小遣いを「向こうから」与えられるものと感じているでしょうか。そうではなく、それを「こちらから」自分でゲットするものと捉えていないでしょうか。
 「先生のまなざしをこちらに向かせたいと思っているのに、どうしてもあいつらに取られてしまう。ちくしょう、悔しい」という思いが「先生はえこひいきしている」ということばになるのです。「兄貴と同じだけの小遣いをゲットしたいのに、ちくしょう、兄貴はぼくの倍ももらっている」という思いが「お父さんはえこひいきしている」という反発になっているのです。
 つまりここには「向こうから」与えられているという実感がないのです。もし「向こうから」与えられていると感じたら、もう誰かさんには多くて自分には少ないといった比較など入る余地がありません。そんな比較は「こちらから」手に入れようとしている時に生まれるものです。「そのままで救われている」という声が聞こえてきた時、もうそこには自分と誰か他の人と比べるなどということはありません。ただその声をほれぼれと聞かせてもらうだけです。
 『無量寿経』の「聞其名号、信心歓喜」ということばを注釈して、親鸞は「本願をききて、うたがふこころなきを“聞”といふなり」と言っていますが、「うたがふこころなき」ということは、自他を比較しないということです。もう自も他もないということです。これが「たまはりたる信心」です。

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