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『歎異抄』を読む(203) ブログトップ

12月5日(水) [『歎異抄』を読む(203)]

 では第2段に進みます。
 いづれもいづれも、くりごとにてさふらへども、かきつけさふらふなり。露命わづかに枯草の身にかかりてさふらふほどにこそ、あひともなはしめたまふひとびとの御不審をもうけたまはり、聖人のおほせのさふらひしをもむきをも、まうしきかせまゐらせさふらへども、閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと、なげき存じさふらひて、かくのごとくの義どもおほせられあひさふらふひとびとにも、いひまよはされなんどせらるることのさふらはんときは、故聖人の御こころにあひかなひて、御もちゐさふらふ御聖教どもを、よくよく御らんさふらふべし。おほよそ聖教には、真実権仮ともにあひまじはりさふらふなり。権をすてて実をとり、仮をさしをきて真をもちゐるこそ、聖人の御本意にてさふらへ。かまへてかまへて、聖教をみみだらせたまふまじくさふらふ。大切の証文ども、少々ぬきいでまいらせさふらふて、目やすにして、この書にそへまいらせてさふらふなり。
 どれもみな同じことの繰り返しですが、書き付けておきました。もういつ死ぬか分からぬ歳になってしまいましたが、今はまだご一緒させていただいている人々から疑問の向きをお聞きすることもできますし、親鸞聖人が言われたことをお話しすることもできます。しかし私が死んでしまった後は、さぞかし混乱してしまうのではないかと心配でなりません。ここに書いてきましたような異義を唱えている人たちに言い惑わされるような時は、故聖人のお心にかない用いられてきました御聖教をしっかりお読みになってください。聖教には真実と仮の方便とが混じっているものです。方便は捨てて真実を取り、仮をおいて真を用いることが聖人のお心にそうことです。間違っても聖教を誤解なさらぬように。大切な証文を少々抜き出しまして、目安としてこの書に添えておきましょう。

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