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『歎異抄』を読む(その207) ブログトップ

12月9日(日) [『歎異抄』を読む(その207)]

 では第3段に進みます。ここで親鸞のすばらしいことばに出会えます。
 聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよと、御述懐さふらひしことを、いままた案ずるに、善導の、自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれといふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなくも、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよへるを、おもひしらせんがためにてさふらひけり。
 聖人はよく次のように言われたことでした。「阿弥陀仏が長い時間をかけて立てられた本願は、よくよく考えてみますと、ただ私親鸞ひとりのためです。とすれば、こんなにも業の深い私を救おうと思い立ってくださった本願のかたじけなさが身に沁みる」と述懐されましたが、これを今改めて考えてみますと、善導の「自分は現に罪にまみれ、生死の迷いの中にある凡夫で、限りない昔より生死の苦海を浮き沈みしながら流転して、そこから逃れ出るすべのない身であることよ」という金言とぴったり重なり合います。ですからこれは、かたじけなくも自分の身に引きかけて、われわれが自分の罪悪の深さも知らず、如来の御恩の高さも知らずに生死の世界を迷っていることを思い知らせようとしてくださっているのです。

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