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『歎異抄』を読む(その208) ブログトップ

12月10日(月) [『歎異抄』を読む(その208)]

 ここで、親鸞思想の総決算とでもいうべき表現が出てきます。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言うのです。「本願は私一人のため」ということです。そんな馬鹿なと思います、「本願はみんなのため」のはずです。みんなに分け隔てなく与えられているのが本願でしょう。陽光はみんなに平等に注がれています。善い人か悪い人か、賢い人か愚かな人か、金持ちか貧乏人かにかかわりなく、同じように注がれています。ところが親鸞は私一人に注いでいると言うのです。
 一体何を言いたいのでしょう。
 もう一度、例の「先生はえこひいきしている」に戻りたいのですが、こんな不満をもらす生徒は「先生の愛が平等に注がれていない」と思っています。こんな思いが生まれてくる源をたどってみますと、「こちらから」先生の愛をつかまえてやろうという姿勢があります。自分で先生の愛を手に入れようとするものですから、周囲の誰彼と見比べて、自分の方が多いとか少ないという思いが生まれてくるのです。「勝った、負けた」と思うのです。
 でも、「向こうから」やってくる愛をふと感じた時、周りの誰彼と見比べるようなことをするでしょうか。誰かには多いが自分には少ないなどと比較するでしょうか。その時には、もう自分しかいなくて、それ以外の人たちの姿は後景に退いているはずです。これが「ひとへに親鸞一人がためなりけり」の意味です。

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