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『歎異抄』を読む(その211) ブログトップ

12月13日(木) [『歎異抄』を読む(その211)]

 信じる人には存在し、信じない人には存在しないというのは何だかおかしいなと感じます。ルール違反ではないかという感じ。
 これは、ものごとには客観性がなければならない、主観的にすぎないものは問題とするに値しないという感覚です。これは科学の感覚です。ある人には存在するが、ある人には存在しないなんてことがあってはなりません。それはルール違反です。でも、それは科学のルールに違反するのであって、この世界、科学だけで成り立っているわけではないということを忘れてはいけません。
 悲しみは、ある人に存在し、ある人には存在しません。もちろんぼくは妻の悲しみを理解できます。でもそれを感じることはできない。理解するというのは外から「知る」ということです。一方、感じるというのは内から「気づく」ことです。科学はものごとを外から「知る」営みです。あるものを外から知ろうとするとき、それがある人には存在するが、ある人には存在しないということがあってはなりません。でも、内から気づくとき、気づいた人には存在しますが、気づかない人には存在しません。
 「知る」とは、こちらからキャッチすることです。キャッチされるものは外にあり、それをキャッチするのはぼくですが、でもぼく以外の誰でもキャッチできなければなりません。外にあるというのは、客観的にあるということです。一方、「気づく」とは向こうからキャッチされることです。キャッチされるのはぼくで、ぼく以外の誰がキャッチされるかはぼくの関知するところではありません。キャッチされたぼくにとって、キャッチされたことは天地がひっくり返っても確かですが、キャッチされない人にとって、そんな事実はどこにもありません。

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