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『歎異抄』を読む(その214) ブログトップ

12月16日(日) [『歎異抄』を読む(その214)]

 宗教と暮らしの問題です。
 暮らしと言いましても、自分の暮らしのことだけを言っているのではありません。誰しも自分の暮らしが一番大切ですが、だからと言って周りの人たちの暮らしはどうでもいいということにはなりません。みんなが暮らしよい社会にしていくにはどうしたらいいかを真剣に考えなければなりません。政治や経済がどうあるべきかみんなの智恵を出し合わなければなりません。
 一方では他力、他方では自力、どちらも否定できません。どちらかにしてしまえるならスッキリしていいのですが、そうもいきません。火宅無常の世界は確かに「みなもてそらごとたわごと」ですが、だからと言ってそこから逃げ出す訳にはいきません。火宅無常の世界の只中を生きていくしかありませんから、火の粉を必死に払いのけながら、どうすべきかを考えなければならないのです。念仏だけが真実だと言っても、念仏では食っていけません。じゃあ宗教なんてどうでもいいじゃないか、ともいきません。ぼくらは他力なしには生きていけないからです。「向こうから」やってくる「そのままで救われる」という声を頼りにぼくらは生きていけるのですから。
 宗教は他力、暮らしは自力、それぞれに平和共存でいいじゃないかと言われるかもしれませんが、ことほどさように簡単ではありません。ここからここまでは宗教、ここからは暮らしというように都合よく区別することができないからです。逆に、両者をはっきり区別してしまいますと、その宗教はもはや生きていると言うことができません。宗教は日々の暮らしの中で働いているからこそ生きているのです。暮らしから切り離された宗教など、陳列ケースに収められた阿弥陀仏みたいに、ただの鑑賞用にすぎません。

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