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『歎異抄』を読む(その215) ブログトップ

12月17日(月) [『歎異抄』を読む(その215)]

 昨夜の開票速報を見ながら、二・三十年前の日本に戻ったかのような気分になりました。お隣の国との間でドンパチにならないよう祈るばかりです。
 さて、宗教と暮らしです、他力と自力はどのように絡み合っているのでしょうか。
 日々の暮らしは「生きんかな(生きよう)」の上に成り立っています。「生きんかな」として、そのために必要なものを手に入れようとしているのです。朝「行ってきます」と出かけるのは、生きるために必要なものを手に入れるためです。そして夕方「ただいま」と帰ってきて一日の疲れを癒します。これが暮らしです。
 これはきれいごとでは済みません。「生きんかな」と思って必死になっても、自分の思い通りには事が進まないからです。そこでは醜い争いがつきものです。火宅無常の世界です。「そらごと、たわごと」ばかりです。「生きんかな」とする限り、誰もこの「そらごと、たわごと」の世界から逃げ出すことはできません。
 一方宗教は「生かしめんかな(生きていていい)」という声が聞こえるところに開けてきます。ところがぼくらは残念なことに「生かしめんかな」をどんなに頑張っても自分で調達することができません。自分に向かって「生かしめんかな」と何度言っても詮ありません。それは誰もいない家に帰ってきて、自分に向かって「おかえり」と言うようなもので、空しさが戻ってくるだけでしょう。
 やはり誰かが「おかえり」と言ってくれてはじめて「やれやれ、帰ってきた」という実感を持つことができます。同じように「生かしめんかな」という声が「向こうから」聞こえてはじめて「生きていていいんだ」という実感を持てるのです。これが宗教です。

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