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『歎異抄』を読む(その222) ブログトップ

12月24日(月) [『歎異抄』を読む(その222)]

 ぼくはいわゆる全共闘世代です。学生時代は、大学の時計塔に巨大なゲバラの肖像が翻り、大音量のインターナショナルが響くという状況で、バリケード封鎖されたキャンパス内には、赤、白、青、黒、色とりどりのヘルメットが入り乱れていました。
 そんな中で、ぼくの関心はおのずと安保やベトナム戦争など目の前の社会状況に向かいました。デカルトやカントを静かに読むという雰囲気とは程遠く、目の前の社会をどう変革するかという熱い議論を繰り返していました。
 教員になったのも、どんな社会をつくっていくべきかを生徒と一緒に考えたいと思ったからです。当然組合にも入り、組合運動はどうあるべきかを巡ってまた激しい論争をしていたのです。
 そんな訳で、昔のぼくを知っている人は、親鸞と聞いて「へえー?」と皮肉な笑いを漏らすことになります。
ぼくが若かった頃、吉本隆明という評論家が学生たちのカリスマとして輝いていました。彼は全共闘運動を支持し、世間に向かって鋭い社会評論を突きつけていました。そんな彼が後年親鸞について色々書くようになりますと、「へえー、あの吉本隆明が!?」と驚きと冷笑で迎えられることになります。
 若い頃は政治の世界で左翼的な言辞を弄していても、年を取ると宗教の世界に慰めを求めるのか、という冷ややかな眼差しです。これは日本に特徴的な現象なのか、それとももっと普遍的なものかはよく分かりませんが、宗教に近づくことを政治的活動から足を洗うことの象徴と見るのです。

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