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『はじめての親鸞』(その1) ブログトップ

12月28日(金) [『はじめての親鸞』(その1)]

 これまで「『歎異抄』を読む」というタイトルで半年以上にわたって語ってきました。今回からは「いまなぜ親鸞か」について語り継いでいこうと思います。これも中日文化センターの講義(「はじめての親鸞」)がもとになっています。
 まずは「はじめに」。
 日本の風土では宗教が特別あつかいされます。正月には初詣に行き、お彼岸には墓参りを欠かさないのに、そうした宗教的習俗は当たり前に受け入れられているのに、特定の宗教に関わるのは特別な人のやることと見なされます。
 「あなたの宗教は何ですか」と尋ねますと「宗教はありません」と答えるのが普通です。かくして日本は無宗教の国ということになりますが、それは特定の宗教に属するのを敬遠するというだけで、決して文字通りの無宗教ではないでしょう。
 もう一つ特別あつかいされるのが政治です。宗教が敬遠されるように、政治的なことがらも胡散臭い目で見られます。時々の政治的話題について床屋談義をするのは大好きなのに、どの政党を支持するかといった話になってきますと次第に危険ラインに近づき、みんなの腰が引けてきます。まして特定の政党の活動をするなどは普通の人のすることではないとみなされます。
 宗教と政治、両者は同じにおいがします。元来「まつりごと」とは宗教でもあり同時に政治でもあったのですから、同じにおいがするのは当たり前です。近代はそれを分離したのですが(政教分離の原則)、そこに共通の危険なにおいをかぎつけ、双方を敬遠するのが平均的日本人です。
 宗教にも政治にも何か「過剰なもの」があるのです。日々の穏やかな生活には納まりきらず、はみ出してしまうところがある。そういうものに平穏な時間がかき乱されるのを恐れて敬遠するのです。

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